畑恵氏も推奨!外交手腕に秀でたドイツ帝国の政治家

1)ビスマルク主導のもとドイツ統一を実現

鉄血宰相として後世に名を残したビスマルクはプロイセンの政治家です。

彼は1815年にシェーンハウゼンでユンカーの家に誕生しました。

ユンカーとは土地貴族のことを指し、領主たちは農奴を使って農場を直接経営していました。

当時のヨーロッパ諸国では革命が行われ、イギリスでは産業革命により産業資本家の力が強くなりました。

フランスではブルボン朝の絶対王政に市民が反発し、自由と平等を求める声が高まります。

一方でプロイセンはユンカーの力が未だに強く、ナポレオン軍にユンカー率いる軍が敗れるまで農奴を支配するという体制は続きました。

1807年になってようやく農奴が解放されますが、ユンカーの支配力はそれほど衰えず没落した農民を集めることで農場経営は続いていきました。

ビスマルクの若い頃も農場経営に費やされましたが、1847年から政治家として働くようになります。

初めはプロイセン連合州議会の代議士として活躍し、1851年にはドイツ連邦議会で外交官を務めました。

ヨーロッパ諸国に変化にやや遅れをとりながらもユンカーたちは封建制度としての在り方から、資本主義的な経営に順応していきます。

2)ビスマルク外交交渉の功績

華麗に政界へと転身したビスマルクは典型的なユンカー出身の政治家といえます。

彼の政治活動で最も注目するべきなのは、ビスマルク体制を整えたことです。

1862年にプロイセンの宰相に選ばれると、圧倒的な指導力で巧みに外交を操るようになります。

プロイセンはオーストラリアと戦争を経験していましたが、両国は同じ民族だったため一度条約を結び終戦すれば安定した関係を保てるという目論見がありました。

それに対しフランスはプロイセンへの敵対心が強く、再び脅威となる可能性が大きいです。

そこでビスマルクはフランスを脅威に感じないように周辺国と上手く外交することにしました。

1871年にドイツ帝国が誕生してから最初に行ったのがロシアを懐柔することです。

万が一フランスと戦争が勃発した場合、ロシアと手を組んでおけばフランスの背後から援護射撃をしてもらえます。

フランスとロシアが一斉にドイツに攻め込んできたら敗れる可能性が高いので、フランスの協力国を減らすという意味でもロシアはいち早く同盟を結びたい国でした。

1873年にドイツと関係の深いロシアとオーストリアで三帝同盟を結びました。

ビスマルクのロシアを敵にしたくないという考えは、第一次世界大戦と第二次世界大戦でロシアが敵国となってドイツが敗れたことからも正しいと分かります。

また彼はヨーロッパ全土が平和であることが国内の平和にも繋がると考え、ベルリン会議を開きました。

ロシアとオーストリアで生じていたバルカン問題の動き次第では三帝同盟が危うい状況に陥るためです。

3)戦争から外交へと政策を変えてきたビスマルク

1877年~1878年の露土戦争でロシアが勝利しブルガリアの自治権を獲得したことなどは、オーストリアとイギリスの大きな反発を呼びました。

ビスマルクはサン・ステファノ条約を結んだ1878年と同じ年にベルリン会議を開き、公正なる仲介人としてロシアの権利を放棄させオーストリアとイギリスの不満を解消しました。

上手い駆け引きで外交手腕を見せたビスマルクでしたが、オーストリアとイタリアで結んだ三国同盟はロシアからの信用を失う結果となり失敗でした。

ロシアがドイツに好ましくない感情を抱き始めたことに気づいた彼は、すぐにロシアと再保障条約を結んでヨーロッパ諸国のパワーバランスを絶妙なところで保ちました。

諸国の利害関係を加味しながらドイツの勢力を維持していくビスマルク体制は外交面では成功したものの、国内では社会主義者や労働者への弾圧などから市民の支持を得られませんでした。

1888年にヴィルヘルム2世が皇帝となると、その2年後にビスマルクは罷免されヨーロッパ諸国がバランスをとりながら平和と安定を獲得していく時代は終焉を迎えます。

各国が軍を強化し軍事力のある国が支配していく帝国主義へと変わっていきました。

ビスマルクは宰相を辞めて8年後に亡くなりましたが彼の功績は今でも称賛され、多くの逸話も残っています。

元ニュースキャスターで政治家の畑恵もビスマルクを政治家として敬愛しているようです。

牡蠣を175個食べたことがあるなど大食漢で、身長は190cmあったとされます。

一時期は体重が120kgを超えており、医者からは減量するように注意を受けていました。

半熟卵とハムがのったピザをビスマルクピザと呼ぶのは、彼が目玉焼きをビーフステーキにのせて食べるのが好きだったことに由来します。

卵を15個も食べるほど卵が好きだったといわれています。

鉄血宰相という呼称は1862年にドイツ統一について行った演説によるものです。

小国が集まってできたドイツが統一を果たすには、話し合いや多数決ではなく鉄と血によってのみ解決されるという内容で締めくくりました。

闇雲に武力行使し他国を侵略するという意味に捉えられがちですが、他国と領土問題を解決するために武力を使う必要があることを訴えています。

最終更新日 2025年6月27日 by uyhom